2009年 08月 22日
いつか来る明日 |
夏の休暇を世界の屋根の一角を成す標高4,000mの山岳地帯で過ごした僕らは、帰国の前泊に経由地の都会の街で1日時間をとり、この地のホテルで久々に文明を感じていた。眼下には車の波がまるで僕らの部屋に向かって突進してくるかのように流れている。地上から見ると立派に見えるこの街も、高いところから見るとまだまだ粗末な建物も多く、屋上には錆びた鉄パイプや薄汚れたタンクが誰に見られるまでもなく無造作に横たわっている。きっとこれらを目にするのは僕らのようなこのホテルの宿泊客とそこの出入りする修理工くらいのものだろう。滅多に人の視線が落ちることもないそれら屋根の下にも、必死に存在を主張するささやかなの人々の生活があり、小さな物干し台に幾つかの洗濯物が風に揺れていたりすることに気づく人は当然少ない。そして仮に気づいたとしても、見た目にその風景が貧しくとも決して彼らは不幸ではなく幸せであることを知る由もない。少なくともこのホテルに泊まる宿泊客の意識は、開発から取り残されたような眼下のうらぶれた風景に一瞬目を落とすことはあっても、その意識はその後は延々と地平線まで続くかのようなこの都会の稜線に意識を集中させているに違いなかった。昨日まで、羊飼いに連れられ横切る牛や羊の群れや牧草地に可憐な花を咲かせている名も知らぬ草たちが風になびく様子を眺め、聞こえてくる音と言えば羊や牛の鳴き声とカウベルの鈴の音、そして昼夜絶え間ない川のせせらぎのみ。それが一転して、視覚に入るのが灰色の街と錆びたタンクに変わり、耳に入る音も窓ガラスの向こうから僅かながら頻繁に漏れ聞こえてくるクラクションにとってかわったことに、僕らは少し「リハビリ」が必要だった。
栗助は部屋に戻る早々ベットでうたた寝をしていた。少しは旅の疲れが出たのかもしれず、その無防備な寝顔に思わず僕の頬が緩んだ。昼過ぎににわかに不穏な黒い雲が広がり、付近を散歩していた僕らは急ぎ部屋に戻ってきたのだ。しばらくして、案の定稲妻と共に大粒の雨がその雲からこぼれ出した。栗助の寝顔を横に、僕は部屋の窓際に置かれた長椅子に膝を抱えて座り、突然降りだした雨に地上の人々が右往左往しながら屋根を求めて走り出す様をちょっと意地悪な気持ちで見ていた。でも、そんな気まぐれな雨もほどなく止んで、入れ替わりすぐに薄い雲の向こうから太陽が顔を覗かせた。陽はまだ高く、でもまだ雨の残り香を残したような弱々しい光ながら、僕らの部屋の中にその光の粒が部屋いっぱいに広がり、何か神々しい光の導きかのように寝ている栗助の背中を温めている。空もまた雨雲の余韻を残し、雲の一部を金色に輝かせながらも青ともグレーともつかぬ迷彩色を大きく広げていた。そして高層の窓から見る空は手が届きそうなほどに、近い。
こんな天気は、なぜか僕の心を落ち着かせる。雨あがりのほんの一瞬に、実家の庭にある紫陽花の葉の裏に避難していた羽を濡らした小さな蝶が、そろりと顔を出すのが見える気がする。雨でしなやかに頭を垂れた砂場横のユキヤナギの小さな葉から水滴が落ちる音が聞こえる気がする。僕にとって雨上がりの風景は、実家を出た今も、幼い頃に五感いっぱいに何かを感じていたあの庭の雨上がりの風景に帰結する。こんな異国の地での雨上がりでさえ、そよぐ風の香りも、養分をたっぷり含んだ土の匂いも、人々の発する言葉でさえ全く理解することさえもできないこの場所でも、僕は今この雨上がりをあの子供の頃のあの庭の中で感じている。かろうじてこの窓から眼下に目にすることができる植えられたばかりらしい弱々しい街路樹と、まるで貧しさをそのまま纏ったような廃墟のようにも見える集合住宅のベランダに置かれたくつかの植木が、この彩りに欠いたこの灰色の町の中で生の存在を主張するかのように、この都会の中で僕のあの雨上がりの庭に対抗していた。
幼い僕はその雨上がりの風景の中にいたあの頃、きっと幸せだったに違いない。雨宿りの虫たちの姿、ひとしきりの雨に打たれた植物たちの健気さと精彩ある美しい緑は幹や土の黒さの対比に映え、子供心にこれが今後も半永久的に自分の心象風景として存在し続けることを予見していたし、だからこそいつも雨上がりの庭を飽くことなく眺めている、僕はそんな子供だった。そして幼稚園のときに雨の日の昼寝の時間にBGMでかかっているピアノ曲が、僕の雨の旋律となっていつも心の中でその曲を奏でていた。それは幼心に、まさに雨を的確に表現したように感じていて、その曲を聞くと僕は自然に目を瞑り雨が地上を濡らす様を空想しながら眠りに落ちていくのだった。
ある時、僕はそこで何を言ったのかわからない。ただその言葉に対して、居間にいた祖母が母に対して言った言葉がある。「この子は男の子なのにこんなに感受性が高くて、、大丈夫かしら?」深い意味はなかったのかもしれない。僕もこの言葉を音節として単に記憶しているに過ぎなかったものの、ある一定の時間が経ち自分の存在と内なる声を知るに至ったとき、おそらくあの時の祖母の言葉が僕がゲイとしての片鱗を、自分でさえ知らなかった事実を他の誰かに指摘された最初の「事件」であったような気がしている。センシティブであることがゲイの1つの特質の1つであるという「仮説」が本当であるならば。
確かに感受性は高い子供であったような気はする。遠くに住む従兄弟が遊びに来て帰るときなどは涙を浮かべて別れを惜しむようなこともあった。でも僕はいわゆる「普通」にいつもの仲間ととつるんで遊び、昼休みは校庭でドッチボールをしたり、一方でバスに乗らないと行けない公立図書館に一人出かけてちょっとした冒険気分を楽しむような、そんな「普通の男の子」だった。成績も良かったものの、同じクラスには常時学年1番をキープしているHがいて、だから僕はいつも「2学期の学級委員長」で、1学期は誰の異論もなくHが級長になった。そして、敢えて僕が同性を対象とした初恋というものがあったとすれば、このHがそうだったかもしれない。背もそれほど高くはないし決して美形というわけでもなく、強いて言えば愛敬のある顔で勉強もスポーツもできるクラスの人気者だった。ただ、僕はHに恋心を抱いていたのか今でも分からない。それは同性の友達としての単なる子供らしい純粋な信頼と友情であったような気もしていて、今自分がゲイであることを知っているがゆえに、僕が脳内で作り上げた仮初めの同性に対する初恋であるような気がしないでもないのだ。ただ、現実に僕はそれが仮に同性に対する初恋であったとしてもなかったとしても、僕はそれ以前に女の子に初恋をしていたし、その後大学に至るまで付き合い、そして恋愛感情を抱いたのは紛れもなく女性だった。しかし、少なくとも高校以降の僕は知っていた。自分の中に女性とは違う感性で同性にも惹かれる自分の内なる存在を。
ただ高校・大学時代の僕は忙しかった。日々の友人達との他愛のない会話、そして毎日の部活の練習や試合、仲間との付き合いに熱中し楽しんだ。思春期の学生によくある男女の駆け引きやクラスメイトの女の子や下級生からの告白、ドキドキしながらも人並みにそんな「時代」を謳歌し、部活動にも、趣味で参加していた一般オーケストラの年上の仲間たちとの交流も、受験勉強やアルバイトも、とにかく僕は恋愛に関してはその都度「彼女」はいたものの恋愛に関してはそれほど優先順位の高いものでは多分なかったのかもしれない。初キスも同級生の女の子と恥ずかしいくらい王道の横浜の山下公園のベンチでぎこちなく「完了」した。それゆえ、自分の性向について朧げに何かを感じながらも深く追及することも、そして肯定も否定もなかった。他に考えることがたくさんあった、と言った方がよいかもしれない。若さの中で旺盛な様々な興味と肉体的な活動範囲の広さで、おそらく僕は自然と自分に内在する余力と思考をを発散し、そして孤島で羽を休める渡り鳥のように疲れた体を横たえて適度にぐっすり眠った。そういう意味で、僕はゲイながら己自身に悩むこととは無縁な幸せな思春期だった。高校まで続けたピアノも、その頃にはショパンの「雨だれ」を弾けるようになっていた。幼い頃僕を空想と共にまどろみに誘った雨の日のあの曲、だった。
雨上がり、雲の切れ間から薄日が差し、今その光を浴びて栗助が横で寝息を立てている。その一瞬の深い白昼の眠りの中で、彼は今何を夢見ているのだろう。輪廻転生があるのだとしたら、おそらく僕の前世から何かの因果がある「雨上がり」のこのシーンが、DNAとして何か象徴的に僕の肉体に擦り込まれている。今僕は栗助と見知らぬ街を旅し、そして共に男2人の人生の旅を歩きはじめて10年になろうとしている。部屋の中を、満たしているこの金色の光は僕らに対する宇宙からの無言の祝福だろうか。本当は時折世の中からの孤独を感じないといったら嘘になる僕ら2人を、自然や宇宙を超越した天空の存在が、僕らに光という媒体を通じて時折凍りそうになる心の中の小さな塊を溶かそうと温めてくれているのかもしれない。静かな、そして優しい空の色と陽光。子供に還ったような無邪気な寝顔。髪が日の光に透けて透明に輝いている。そして何かに見守られているように感じるこの心の中の穏やかでたおやかな風。
僕らは今幸せの中にいる。誰に与えられたわけでもない、僕ら自身の心がつくったこの幸せの中に。そして、この自然の中に存在する何かがそれを優しく見守ってくれている。それを知りつつ、いつかこの幸せと共に僕らはこの世を去る。きっと、雨上がりの昼下がりに。

♪Luke Dillon♪ ←この旅の間中、僕の頭の中でずっとこの曲が流れてました。

こんな天気は、なぜか僕の心を落ち着かせる。雨あがりのほんの一瞬に、実家の庭にある紫陽花の葉の裏に避難していた羽を濡らした小さな蝶が、そろりと顔を出すのが見える気がする。雨でしなやかに頭を垂れた砂場横のユキヤナギの小さな葉から水滴が落ちる音が聞こえる気がする。僕にとって雨上がりの風景は、実家を出た今も、幼い頃に五感いっぱいに何かを感じていたあの庭の雨上がりの風景に帰結する。こんな異国の地での雨上がりでさえ、そよぐ風の香りも、養分をたっぷり含んだ土の匂いも、人々の発する言葉でさえ全く理解することさえもできないこの場所でも、僕は今この雨上がりをあの子供の頃のあの庭の中で感じている。かろうじてこの窓から眼下に目にすることができる植えられたばかりらしい弱々しい街路樹と、まるで貧しさをそのまま纏ったような廃墟のようにも見える集合住宅のベランダに置かれたくつかの植木が、この彩りに欠いたこの灰色の町の中で生の存在を主張するかのように、この都会の中で僕のあの雨上がりの庭に対抗していた。
幼い僕はその雨上がりの風景の中にいたあの頃、きっと幸せだったに違いない。雨宿りの虫たちの姿、ひとしきりの雨に打たれた植物たちの健気さと精彩ある美しい緑は幹や土の黒さの対比に映え、子供心にこれが今後も半永久的に自分の心象風景として存在し続けることを予見していたし、だからこそいつも雨上がりの庭を飽くことなく眺めている、僕はそんな子供だった。そして幼稚園のときに雨の日の昼寝の時間にBGMでかかっているピアノ曲が、僕の雨の旋律となっていつも心の中でその曲を奏でていた。それは幼心に、まさに雨を的確に表現したように感じていて、その曲を聞くと僕は自然に目を瞑り雨が地上を濡らす様を空想しながら眠りに落ちていくのだった。
ある時、僕はそこで何を言ったのかわからない。ただその言葉に対して、居間にいた祖母が母に対して言った言葉がある。「この子は男の子なのにこんなに感受性が高くて、、大丈夫かしら?」深い意味はなかったのかもしれない。僕もこの言葉を音節として単に記憶しているに過ぎなかったものの、ある一定の時間が経ち自分の存在と内なる声を知るに至ったとき、おそらくあの時の祖母の言葉が僕がゲイとしての片鱗を、自分でさえ知らなかった事実を他の誰かに指摘された最初の「事件」であったような気がしている。センシティブであることがゲイの1つの特質の1つであるという「仮説」が本当であるならば。
確かに感受性は高い子供であったような気はする。遠くに住む従兄弟が遊びに来て帰るときなどは涙を浮かべて別れを惜しむようなこともあった。でも僕はいわゆる「普通」にいつもの仲間ととつるんで遊び、昼休みは校庭でドッチボールをしたり、一方でバスに乗らないと行けない公立図書館に一人出かけてちょっとした冒険気分を楽しむような、そんな「普通の男の子」だった。成績も良かったものの、同じクラスには常時学年1番をキープしているHがいて、だから僕はいつも「2学期の学級委員長」で、1学期は誰の異論もなくHが級長になった。そして、敢えて僕が同性を対象とした初恋というものがあったとすれば、このHがそうだったかもしれない。背もそれほど高くはないし決して美形というわけでもなく、強いて言えば愛敬のある顔で勉強もスポーツもできるクラスの人気者だった。ただ、僕はHに恋心を抱いていたのか今でも分からない。それは同性の友達としての単なる子供らしい純粋な信頼と友情であったような気もしていて、今自分がゲイであることを知っているがゆえに、僕が脳内で作り上げた仮初めの同性に対する初恋であるような気がしないでもないのだ。ただ、現実に僕はそれが仮に同性に対する初恋であったとしてもなかったとしても、僕はそれ以前に女の子に初恋をしていたし、その後大学に至るまで付き合い、そして恋愛感情を抱いたのは紛れもなく女性だった。しかし、少なくとも高校以降の僕は知っていた。自分の中に女性とは違う感性で同性にも惹かれる自分の内なる存在を。
ただ高校・大学時代の僕は忙しかった。日々の友人達との他愛のない会話、そして毎日の部活の練習や試合、仲間との付き合いに熱中し楽しんだ。思春期の学生によくある男女の駆け引きやクラスメイトの女の子や下級生からの告白、ドキドキしながらも人並みにそんな「時代」を謳歌し、部活動にも、趣味で参加していた一般オーケストラの年上の仲間たちとの交流も、受験勉強やアルバイトも、とにかく僕は恋愛に関してはその都度「彼女」はいたものの恋愛に関してはそれほど優先順位の高いものでは多分なかったのかもしれない。初キスも同級生の女の子と恥ずかしいくらい王道の横浜の山下公園のベンチでぎこちなく「完了」した。それゆえ、自分の性向について朧げに何かを感じながらも深く追及することも、そして肯定も否定もなかった。他に考えることがたくさんあった、と言った方がよいかもしれない。若さの中で旺盛な様々な興味と肉体的な活動範囲の広さで、おそらく僕は自然と自分に内在する余力と思考をを発散し、そして孤島で羽を休める渡り鳥のように疲れた体を横たえて適度にぐっすり眠った。そういう意味で、僕はゲイながら己自身に悩むこととは無縁な幸せな思春期だった。高校まで続けたピアノも、その頃にはショパンの「雨だれ」を弾けるようになっていた。幼い頃僕を空想と共にまどろみに誘った雨の日のあの曲、だった。
雨上がり、雲の切れ間から薄日が差し、今その光を浴びて栗助が横で寝息を立てている。その一瞬の深い白昼の眠りの中で、彼は今何を夢見ているのだろう。輪廻転生があるのだとしたら、おそらく僕の前世から何かの因果がある「雨上がり」のこのシーンが、DNAとして何か象徴的に僕の肉体に擦り込まれている。今僕は栗助と見知らぬ街を旅し、そして共に男2人の人生の旅を歩きはじめて10年になろうとしている。部屋の中を、満たしているこの金色の光は僕らに対する宇宙からの無言の祝福だろうか。本当は時折世の中からの孤独を感じないといったら嘘になる僕ら2人を、自然や宇宙を超越した天空の存在が、僕らに光という媒体を通じて時折凍りそうになる心の中の小さな塊を溶かそうと温めてくれているのかもしれない。静かな、そして優しい空の色と陽光。子供に還ったような無邪気な寝顔。髪が日の光に透けて透明に輝いている。そして何かに見守られているように感じるこの心の中の穏やかでたおやかな風。
僕らは今幸せの中にいる。誰に与えられたわけでもない、僕ら自身の心がつくったこの幸せの中に。そして、この自然の中に存在する何かがそれを優しく見守ってくれている。それを知りつつ、いつかこの幸せと共に僕らはこの世を去る。きっと、雨上がりの昼下がりに。

♪Luke Dillon♪ ←この旅の間中、僕の頭の中でずっとこの曲が流れてました。
by usatoru
| 2009-08-22 02:35
| 詩みたいなモノ
|
Comments(8)

なんだかムラカミ風、ブンタさん。
いいかんじ。
いいかんじ。
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「天国の梯子」
旧約聖書創世記だったかな、確かヤコブが夢の中で見たんですよね?雲の切れ間から射す光の梯子から天使が上り下りするのを・・・。
きっと、文太さん、栗助さんのもとへ天使たちが幸せを届けてくれたのかな?雨が上がればきっと良いことが待っていると・・・。
栗助さんの夢の中が、幸せでありますように。
今日は、栗助画伯の絵をウットリ見入る事なく、文太ワールドを読破できたよ~。でも、あの絵には、何かがあるはず・・(笑)
旧約聖書創世記だったかな、確かヤコブが夢の中で見たんですよね?雲の切れ間から射す光の梯子から天使が上り下りするのを・・・。
きっと、文太さん、栗助さんのもとへ天使たちが幸せを届けてくれたのかな?雨が上がればきっと良いことが待っていると・・・。
栗助さんの夢の中が、幸せでありますように。
今日は、栗助画伯の絵をウットリ見入る事なく、文太ワールドを読破できたよ~。でも、あの絵には、何かがあるはず・・(笑)

人それぞれ原風景ってありますよね。昔、大学の授業でそれを描く授業があって、記憶のタイムトラベルをしました。風景と一緒に色々な思い出が浮かび上がって・・・なかなか得難い体験でした。
栗助さんは次の休暇に向けてもう活動中かしら?
島耕作顔の文太さんはもはや霧の彼方(爆)
栗助さんは次の休暇に向けてもう活動中かしら?
島耕作顔の文太さんはもはや霧の彼方(爆)

私の語彙力では軽々しく感想を書ける文章でではないので、一言だけ。
文太さんのこういった心象風景を描いた文章は、私自身が感じていても言語化までしないほどあいまいなものだったり、実感すべきなのにうっかり忘れていたりすることを代弁してくれていることがあります。いろいろなことを思い出させていただいて、いつもありがとうございます。
文太さんのこういった心象風景を描いた文章は、私自身が感じていても言語化までしないほどあいまいなものだったり、実感すべきなのにうっかり忘れていたりすることを代弁してくれていることがあります。いろいろなことを思い出させていただいて、いつもありがとうございます。
おれんじさん。では、、村下冬樹とでもペンネームをつけようかな(笑)
佳さん。雲の切れ間からの光というのは洋の東西を問わず誰しもの心にないかしかの神秘性を感じさせるようですね。今回はちょっと長くなってしまいました(^^;
じゅんべさん。原風景、まさにそうですね。雨上がりは僕は本当にその空気の香りだけで、何か心の奥深くに何かを感じるんですよねえ。
sallyさん。結構思うことを素直に書いているんですけど、そう言っていただけると嬉しいです(^^ どういたしまして。