2008年 03月 18日
2人で歩く道 |
穏やかな春の陽光の中を独り歩いているとき、僕は決まってそんなことを思う一瞬があります。冷たく乾いた冬の空気から、柔らかく、僅かに湿気を含んだ春の空気は不思議とノスタルジックでもあり、そしてその柔らかい感触に無条件に幸せを感じるような不思議な力があります。関東平野の彼方に見える山並みの稜線は、既に冬の朝のような明瞭な稜線ではなくて、遠い空の下に朧ろに山並みが映るような霞みの中にあって、そんな風景に東京の春を感じたり。
そう、それで"自分がどの辺を歩いているのか"っていうことですが。
物理的な地理的な意味ではなくて、もっと哲学入っちゃってる、そんな意味で考えるんです。僕の人生の中での「今」って、客観的にどういうポジションにあるんだろうと。その答えが誰しも自分の人生を任うした上でないとわからないことなのかもしれないですけどね。
今が自分の人生の中でも最高に幸せな時期であったり、あるいはその上り坂であったり、あるいは既に下降気味であったり(笑)、もっとも必ずしも変動するわけでもなく、今の幸せや悲しみが「現状維持」という人生だってあるわけで。もっとも幸せの価値観は人それぞれ。自分の価値観をつくる要素って、自分自身そんなデジタルに0と1で構成できるほど単純なものでもなく分析できるもんじゃない。自分のこれまでの歴史と、それと共にうつろってきた無意識の感情がつくるものでもあると思うんです。自分自身のこれまでの歴史・・・
これまでに訪れた場所、旅、出逢ってきた人達、様々な別れ、住んだ街、囲まれてきた絵画や音楽、家族や恋人、笑った回数、美味しい食べ物やお酒、身近な自然、季節、流した涙の量、夢の大きさ、そして砕け散った夢だってそう(失恋とか?<笑)、あとは出逢ったブログとか。←ゲイが書いてる某ブログとか(爆)
人の経験や歴史なんて、それこそ指紋以上に人それぞれで多岐に渡り、「同じ人間でもこんなにも時間の軌跡って違うものか」と思うほどだと思うはず。
今日は僕の大好きな冒頭のQuintの絵を。
基本モノクロのトーンのこの絵。やわらかな空気が感じられて、色はないけど僕は春の風景のように思います。ここに見えるのは何もない平原ながら、2人でいることの幸せと、そして2人の信頼関係と愛があれば、こんなに寂しげなところだって幸せなフィールドにさえ見えるというマジック。でもやっぱりゲイのこの2人は(僕は彼等はゲイだと決めてます<笑)やっぱり、どこかに社会的な不安とか、あるいはこれまで生きてきた道程の中での悲哀は忘れられない記憶として彼等の人生にあるんでしょうね。だから、これまで歩いてきた軌跡を、そしてこれから歩いていく未来に敢えて色をつけていなくて。要は過去を何色に思うか、そして未来を何色に染め上げるかは自分次第、2人次第ってことなんだろうな、と。
なんか脈略なくなってきてしまいましたが。
・・・と、まあこの季節になるとそんなことを思いつつ、僕はこの絵を眺めいろんなことを想う。それが僕の春の恒例行事(笑)。
by usatoru
| 2008-03-18 00:37
| 僕らのこと
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Comments(4)
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alexsea at 2008-03-18 05:30
このエントリーを読んで、Robert Frostの"The Road Not Taken"(http://www.bartleby.com/119/1.html)という詩を連想しました。この詩は一人で歩いているものだけど、Quintの絵は様々な分岐点を通ってきた二人が出会って、そこからは手をつなぎながら一緒に歩いていってるという印象を受けます。この先にも分かれ道はたくさんあると思うけど、たぶんこの二人は手を離すことなく、一緒に道を選びながらゆっくりと歩いていくんだろうな、みたいな。
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at 2008-03-18 19:06
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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usatoru at 2008-03-24 21:00
alexseaさん。1枚の絵から沸き起こるイメージって人それぞれですよね。なんか心落ち着くっていうか、すごく静かな気持ちになれるんです、この絵(^^
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usatoru at 2008-03-24 21:01
鍵コメSさん。そうそう、めぐり合った人によって、それぞれの「今」の位置って変わるって確かに言えるかもしれません。自分独りじゃ歩けないんですよね、人の道って。